【専務の景色】”社員交流” 反省と在り方
JSPは、社員交流を会社の健全な発展に必要な取り組みとして位置づけ、そして社員に奨励してきた。
しかし、その運用方法には常に迷いがあった。
忘年会、歓送迎会の参加にどこまでの強制が許されるのか。
社員交流の費用負担はどうあるべきか。
そもそも企業が社員交流を促進する意味があるのか。
ここで社員交流がなぜ会社の健全な発展に必要だと考えるのか、それをきちんと整理しておかなくてはならない。
私が考える社員交流の意義は3つ。
ひとつ、社員同士の親交を深め、チームワークを高めること。
仕事中にできる会話は限られる。趣味の話し、家族の話し、これまでの人生の話し、将来の夢の話しなど、お互いのことを知ることで相互理解が生まれる。仕事だから、役割だから、給料をもらっているから、上司の指示だから、それだけで滞りなく機能する組織はない。煩わしさ、面倒、好き、嫌い、気分、体調、すべて抱えて動いているのが組織というもの。相互理解がなければうまくいくはずがない。
ふたつ、刺激を受けたり与えたりして個々のモチベーションを高め合うこと。
人との接触には良くも悪くも刺激がある。上司の覚悟、先輩の知識、同僚の努力、後輩の苦労、思いも寄らない一面を見た時、だれしも大きな刺激を受けることだろう。職場では見せないこと、職場では見せられないことの方が多いのかも知れない。刺激のある世界は退屈しないだろう。
みっつ、モラル形成に寄与すること。
昨今、職場での軽率で非常識な行動がSNSに投稿され世間を騒がせている。そして雇用主が大打撃を受け存続の危機に至るケースもある。そこの社員教育を非難する気持ちより、「お気の毒に」と思ってしまう。明日は我が身と自社のモラル形成に思いが及ぶ。大企業だからこそ難しい面もあるだろうが、零細企業だから簡単というわけでもない。むしろ零細には社員教育、モラル形成などという概念も制度もあるのか怪しい。どうだろうか、社員交流はモラル形成に一役買っていないだろうか。交流によって育まれる連帯感や帰属意識が抑止力になり、軽率な行動を未然に防ぐことができるはずだ。
一方で社員交流を是としない人もいるだろう。
仕事以外で会社の人と交流するのが煩わしい。
自分のお金と時間は好きなことに使いたい。
社員交流がなくとも自身で努力している。
交流することで人間関係を壊すこともある。
それはそれでいいと思う。
ただ私は社員交流を是と考えている。良いか悪いかを選択しているだけのこと。
会社はひとつのコミュニティ(運命共同体)であり、明確な目的を持って活動している。逆に言えば目的の下に集まった集団がコミュニティなのだから、目的達成のために適度な不自由があって何が悪いのか。
大事なことはその不自由が『適度』であることだ。
実際には『適度』の運用が難しいわけだが、難しいからと言って棚上げすれば組織を強くすることはできない。
そもそもコミュニティは、運営するのも属するのも煩わしくてやっかいなものであり、そこをうまく舵取りできれば企業の強みになるはずだ。
これは挑戦と言っていい。
私はJSPの社員交流についてあらためて考えた。
きっかけは設立30周年記念旅行だった。
だれもが旅行を待ち望み、だれもが旅行を存分に楽しみ、だれもが旅行の思い出を記憶に刻んだ。
私の迷いが晴れたような気がした。
これまでの反省は、
社員交流が、会社経営において真に必要かどうかを追究せず、その必要性に自信を持っていなかった。だから積極的な投資に踏み切れなかった。
これからの在り方としては、
社員交流の効果をしっかり検証し、その効果に見合った投資を積極的にしていくこと。
2017年、JSPは社員交流委員会を設置して、明確に社員交流推進の意思を示した。
これから委員会は、社員交流の成果を分かりやすい形で示し、会社が納得して投資できるように頑張って欲しい。
<社員交流の心得>
参加したくなるイベントを提案しよう
参加しない人を非難しない
参加する意欲を持とう
参加したら自ら楽しむ努力をしよう
すべては会社の発展と自身の幸福につなげよう
おわり
[本日の写真]
設立30周年記念旅行で行ったプーケット(タイ)のクラブメッドで撮影した集合写真(撮影日:2018年11月2日)。
そこに写る人の数や顔ぶれ、表情、年恰好など、すべてがJSPの歴史の一部となる。
沿革が会社の歴史なら、社員交流は社員の歴史だ。
そこに会社の魅力が反映され、共感を持つ新しい社員が集まり、そして文化や伝統が出来上がる。
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